最愛なる母が2025年8月21日
深夜の0時18分にこの世を
去りました、林 瞳です。

誠に勝手ながら、私自身の記録として
今日の記事にとどめておきたい
と思い、綴らせて頂きます。
このブログは10年に渡り
私も書いて来ているので、
何と言いますかもう
公私共に私自身のライフワークに
なっておりますもので。。。
今日はお許しくださいm(__)m
私が中学の頃、母は
インテリアコーディネーターとして
働いていました。
建築やインテリアの知識は皆無で
私や妹の育児が落ち着いたころに
母は独学で建築士やコーディネーター
の資格を取得。
父が一級建築士事務所を
営んでいたので、
そこに従事しながら勉強をし、
その後は別のコーディネーターの
会社に入社。
59歳になるまでその仕事を
全うしました。

母と父。
私は中学の卒業文集に
「母のようにインテリアコーディネーター
になりたい」と書いたのを
記憶しています。
母は私たちにとにかく愛情を注ぎ、
働いているのにいつも手の込んだ
手作り料理を作ってくれました。
小さい頃はミシンで姉妹お揃いの
服をぬってくれたり、
とにかく何でもやる人でした。
良き妻であり母であり、
仕事も不器用ながらも
常に一生懸命な人でした。
私の人生において、
今もそしてこれからも
母は一番尊敬する「愛情」の人です。
母の命がそう長くない事がわかったのは
昨年2024年の6月でした。
突然すい臓がんが見つかり、9月に
10時間にも及ぶと言われた手術が
なされましたが、オペスタートから
たった2時間で父と私の
ところに電話が。
「既にリンパや他に転移が見られ、
手の施せない状態だ」
と知らされました。
母はオペをするかしないかの選択の時に
迷いがあり、
「自分は痛みや苦しみの中で
健康ではない状態で延命をしても皆に
迷惑をかける。自分もそうしてまでは
生きたくない」と思っていたのです。
しかし、最後のチャンスでオペをしないと
分からない事が多かった為、家族の為に
オペに挑戦してくれました。
ですがオペのその日、そのまま
母のお腹は閉じられました。
そこからの母の決意は素晴らしかった。
「どう生きるか」そこに尽きると
残りの余生を何の迷いもなく選び
一切の延命はせず、抗がん剤治療も
受けないと決めました。
「自然な形でその時をむかえたい。
最後の最後まで家族と幸せな時間を
過ごせればいいのだ」と。
そして一つだけ、
死ぬまでに「自分史」
を書くと決めました。
元々母は文章を書くのが趣味で
昔からラジオにエッセイを
投稿したり読書会やら随筆講座やら
サークルの場にも参加していました。
よく新聞やラジオで
母のかいたエッセイが
登場していたのを覚えています。
私や妹の育児日記もずっと書いてくれて
いたし、日々書くという行為は母の
日常だったのです。
そして父、私と妹のためにその自分史
「日々耕す」は昨年の10月から今年
3月におよび、完成するまで執筆作業が
されました。
母は作家の知人も多くいて、その中の
お一人が本の完成まで監修をして
下さりました。
高熱で辛い時にも
最後まで家族の心配をよそに、
書き終えるまでパソコンに
向かいました。
これを完成しなければ
死んでも死にきれない
というのです。
母のその本の中にもありましたが、
「残りの時間が限られているから
止めないでほしい」
という願いを
家族は皆受け入れてくれた。
周りが心配するのは当たり前だが、私の
気持ちを汲んで最後まで
やりたいようにやらせてくれた時、
この家族は「一心同体」
だと思ったと書いてくれています。
母が亡くなった直後、父から私に
その本「日々耕す」が手渡されました。
1.5センチちかい分厚い本で
驚きました。


そこには母の死を受け入れる覚悟と、
周りへの感謝がただただいっぱい。
生まれてからの生い立ち、
父との出会い、
若いころの苦労やら、、、
子育ての日々が輝くほど
楽しかったこと、
子育てをしたことで
自分が変われたと、父への
感謝が綴られていました。
そして、ママ友や趣味で出会った
方々との日々の事、
世界各国旅行した日記やら、
勿論インテリアコーディネーター
として働いた日々の事も
書かれています。
小説を読むように
面白いエピソードも多々あって
私は悲しみも忘れて通夜の前日
この本を一気読みしました。
この「日々耕す」は母の生きざま
そのもので、いつも一生懸命な母を
表すタイトルだなと感じました。
私は娘が3歳になり保育園に入れるまで
ずっと父母の元で託児して
もらっており
娘にとっては母は「第二の母。」
本当に心から私たち同様に
愛情を注がれていたので
孫3人は皆おばあちゃん大好き。
これは10年前くらいの
母が62歳くらい。
孫たちとの時間をとても
楽しんでいました。

通夜も告別式も孫たちの号泣が全く
止まらず、過呼吸になるのでは?と
心配になりました。
母の協力がなければ
私は働けなかったでしょう。
そして同じ仕事をしていたからこそ
全てに理解を示してくれました。
小さい頃から驚くほどに母は
私のすべてを受け入れ応援してくれる
スーパー母ちゃんでした。
自分はどうなってもいいから
家族を優先するような人。
いつもそうでした。
そして、常に分け隔てなく
皆に優しくて笑顔でパワフルで、、、
周りに感謝の気持ちを忘れない人。
母はこの8月1日に
希望していたホスピスに入りました。
しっかりものでせっかちで、5年くらい
前には病気でもないのに
死んだ後に自分が入るお墓を
用意していました。
余命宣告をうけるやいなや、すぐに
皆が困らないようにと終活をスタート。
エンディングノートをつくり私たちに
配りました。
悲しみに明け暮れる私を前に、
母は淡々と
「いいかい?お姉ちゃんが
頼りなんだから」と、
生命保険や死亡後の
連絡先リスト名簿(友人知人など)、
最後に着せる服や遺影の写真データ
などを用意して渡してきました。
最後は家族葬を希望し、かける音楽まで
自分で決めて選んでいました。
ホスピスも見学して
一番いいと思った場所を自分で指定。
そこに最後間に合って入れて
良かったです。
最後の3週間はそのホスピスで
痛みもさほど感じずに
穏やかに過ごしていました。
本当にホスピスの皆さん心が温かい
良い方々でこちらも
勇気づけられました。
固形物は一切とれなかったので
点滴のみ。
だんだん弱っていって声も細く
小さくなっていったけれど、
とにかくしっかり者で
「お父さんの病院の検査が26日だから
わすれないようにね」とか、
なくなる直前まで
人の事を気にしていました。
私は最後の3週間毎日仕事後、
母の元へ駆けつけました。
そして1時間アロマオイルで足を毎日
マッサージしました。
とても気持ちよさそうにして
いましたが、
すぐに人の心配をして
「そんなに毎日やったら
瞳の手が腱鞘炎になるから
無理しないで」というのです。
「仕事も忙しいのに
毎日きてたら大変でしょう」
「死ぬ時にもし仕事だったり深夜なら
来なくていいんだからね」とか。
最後の最後まで自分より
家族ファーストで。
抗がん剤で全身湿疹が出たり
オペの後、身体が叫びたくなるほどの
痛みがあった時にも、
本当に母は強かった。
自分のガンに関しては
一切の弱音を吐きませんでした。
最後の日は仕事に出ていた
私に父から連絡が。
すぐにホスピスに駆けつけました。
保育士の仕事中だった妹も
ほどなく母のもとに。
こうして私たちがそろった
時にはまだ、かろうじて意識があり
半分白目になり息苦しそうに
していましたが
「お母さん、ちゃんとそばにいるよ、
わかるかい?」と声をかけたらちゃんと
「うんうん」と頷いていました。
間に合ってよかった。
一緒に手を握り、最後まで声をかけて
その日は山場になると聞かされ、
離れる事なく深夜のその時がくるまで
一緒に母を見送ることができました。
最後呼吸がどんどんつらそうに
なって来た時には、もう3人とも
「お母さん、ここまで頑張ったんだから
もう頑張らなくていいよ」と
涙ながらに声を掛けました。
本当の最後は安らかにふっと
息が途絶えました。
悲しくて悲しくて、、、、、
だけど3人とも、母がようやく
楽になれたという
安堵のような感覚に陥りました。
ザーザーぶりだった雨がやんで、
その朝3時半に斎場からお迎えがきて
母の入った棺桶をのせた車をおいかけ
私たちも移動しました。
その時ホスピスから外に出たら
雨上がりの草の何とも言えない
においがマスクを取ったときに
ブワーッとして、不思議なくらい
悲しいのにすがすがしい
気持ちになりました。
父も妹も全く同じことを感じていて、
見上げたら夜空に下弦の三日月と星が
沢山見えて
「お母さんの最後の日に
ふさわしい景色だね。
この日の事は一生忘れないね」
と3人で話しました。
やれることは全部やれた。
お母さんはちょっと早かったけど、
自分らしい生き方を全うしました。
私はそんな母のもとに生まれた事を
宇宙一幸せだと思っています。
母に捧ぐ~
私も日々を耕すように
人に感謝して、この悲しみを
そっと持ったまま
けれど幸せに生きられるように
今後すすみます。


↑斎場のメモリアルコーナーの一部。
母は家族に囲まれて幸せでした。
皆で折った千羽鶴も。
この度は仕事に穴をあけてしまい
ご迷惑をおかけしてしまった方々
深くお詫び申し上げます。
また、心配や励ましのお声がけを
沢山いただき、私は本当に恵まれた
環境にいると改めて思っています。
協力してくれた方、すべての方に
「ありがとうございます」と
この場をお借りして
申し上げます。
母の人生を実りあるものにしてくださった
全てに方々にも感謝を込めて。